海外市場調査部 副部長 上席主任研究員
深井 宏昭
英国総選挙特集 政策の行方と不動産市場への影響
③ 環境・ネットゼロ政策
英国総選挙特集と題した本レポートの3回目では、与党保守党、最大野党労働党の各マニフェストを基に、それぞれの環境・ネットゼロ政策の特徴・違いを整理し、将来の不動産市場に対する影響について考察を行う。
● 環境への取組の動向
将来のネットゼロに向けた取組が世界各国で進む中、足元では長期化するインフレや経済後退の影響が波及し、一部の国・地域でネットゼロ進展の勢いが失われつつある。2024年6月に実施されたEU議会選挙では、前回2019年の選挙で躍進した緑の党が議席を大きく減らし大敗を喫した一方、ネットゼロに対して否定的な立場をとる極右政党が大きく議席を伸ばした。ネットゼロに向けた取組が標準化され、他の中道政党の政策に十分に浸透したことで緑の党の支持低下につながったという見方もあるが、インフレの長期化や経済の後退に伴い、一般市民の中でネットゼロを始めとする環境政策に対する優先度が後退している可能性が高い。同様の動きは英国でも見られる。英国では2019年に、2050年までのネットゼロ達成の目標が法制化され、目標の達成に向けた先進的な取組が様々な分野において他国に先駆けて行われてきた。しかし、スナク首相は2023年9月に、国民や企業への負担を考慮し、ネットゼロに向けた姿勢を一歩後退させた。ガソリン・ディーゼル車における新車販売禁止の開始時期を2030年から2035年に後ろ倒ししたほか、導入が予定されていた賃貸住宅におけるエネルギー効率性に関する規制厳格化を撤廃した。このように、英国においても、環境問題へのコミットメントの度合いは、政権の行方を揺るがす大きなファクターとなっており、今回の選挙でも各党の政策動向に注目が集まっている。不動産市場にとっても、環境関連規制は今後の市場のあり方を変える大きな課題となっており、政権交代の有無で方針の転換もあり得る。
● 保守党による政策
与党保守党のマニフェストでは、2050年までのネットゼロ達成という最終的な目標は引き続き堅持された。しかし、ウクライナ戦争に起因するエネルギー価格の高騰、それに伴う国民生活の逼迫といった近年の教訓から、ネットゼロに対する姿勢はややトーンダウンした様子が見られる。今回のマニフェストでは、国民負担の軽減やエネルギーの安定供給に軸足を置いた「現実的な」ネットゼロへのアプローチが掲げられた。
具体的には、国民に対するグリーン関連課税の新設・導入は行わない方針を示した。雇用維持やエネルギー安定供給のため、北海における石油および天然ガスの新規ライセンス付与も引き続き実施する。また、北海への投資を促進させるため、石油・ガス関連企業に対する投資額に係る税控除措置も継続する旨が記された。一方、再生可能エネルギー(以下、再エネ)以外の電力確保も視野に入れ、新規で小型モジュール原発を2基新設することを承認する方針も示された。
一方、再エネの拡大については、洋上風力発電を現在の3倍にまで拡大する目標が掲げられた。また、これまでは地域住民への配慮から建設を規制していた陸上の風力発電についても、地域の実情に応じて建設を認める。太陽光発電については景観保全の観点からグリーンフィールドにおける建設には規制をかける一方、ブラウンフィールドや住宅への設置は促進する。そのほか、炭素回収・貯留クラスターをウェールズおよびノースウエスト地域に新たに創設する方針も示された。
一方、ガソリン車の新車販売禁止の開始時期については2035年で据え置いた。また、賃貸住宅におけるエネルギー効率性に関する規制厳格化については、これまでの取組により既存住宅におけるエネルギー効率性が十分に改善されていることを強調。新たに創設する補助制度などを活用して環境性能の高い住宅への改修に力を入れるとしながらも、規制の厳格化については言及しなかった。
● 労働党による政策
最大野党である労働党は、再エネの普及推進を、同党の最重点政策の一つとして位置付けている。保守党がエネルギーの安定供給を優先するため再エネ以外のエネルギーへの投資も継続する実現可能路線を示したのとは対照的に、再エネの普及によってエネルギー自給率が高まり、エネルギーの安全保障だけでなく国民の負担軽減につながるという、再エネ推進の方針が示された。また、再エネ関連産業は、経済成長や雇用創出の観点からも有望な産業として位置付けられた。
同党のマニフェストでは、再エネ由来の電力を供給する公営企業(Great British Energy)を新たに設立し、国民に対し再エネを安価で安定的に供給する方針が掲げられた。また再エネプラントへの投資を増やし、2030年までに洋上風力発電を現在の4倍、太陽光発電を3倍に拡大する。陸上風力発電についても、開発に関する規制を緩和し建設を促進することで、現行から発電量を倍増させる方針。
北海油田への対応については、採掘に関する現在のライセンスは維持されるものの、新規のライセンス交付は凍結する。また、石油ガス産業に対する課税税率を引き上げるほか、同産業における投資に係る税控除措置については廃止することが表明された。
その他では、ガソリン車の新規生産禁止の開始時期を2030年に前倒すほか、住宅におけるエネルギー効率性に関する規制厳格化についても実施する方針などが示された。
● 両党の政策についての考察・不動産市場への今後の影響
以上のように、ネットゼロに向けた取組では、労働党がより野心的な政策を掲げている。特に再エネ関連については、2030年までに洋上風力発電だけでなく、陸上風力や太陽光発電も拡大させる目標を設定するなど、意欲的な様子が見て取れる。また化石燃料についても、北海の油田・天然ガス採掘への新規ライセンス付与の凍結や、石油ガス産業への課税強化など、保守党と比較してネットゼロ目標の達成に向けて一段アクセルを踏み込んだ印象を受ける。
一方、保守党は、ネットゼロ達成期限を2050年とする目標は保持したものの、化石燃料関連の投資も継続するなど、当面は国民の生活や雇用などに配慮した現実的な政策を打ち出している。欧州議会選でも見られたように、ネットゼロを掲げる左翼政党が大きく議席を減らす一方、ネットゼロを重視しない極右政党に支持が集まったことも、幾分控えめな政策姿勢に影響した可能性がある。
両党のマニフェストで示された環境関連政策の中で、不動産市場に対して最も大きな影響を与えそうなもののひとつに、住宅におけるエネルギー効率性の問題がある。英国は、世界の中でも既存住宅の老朽化が深刻でエネルギー効率性が低いことがしばしば指摘されている。政府統計によると、エネルギー効率性を評価するEPC※(Energy Performance Certificate)においてCランク以上の一定程度高いエネルギー効率性を持つ住宅の割合は半数に達していない。
保守党は2023年に、2028年から予定されていた賃貸住宅におけるエネルギー効率性に関する規制導入を撤廃。今回のマニフェストにあたっては、住宅改修に係るバウチャー制度を新設するなど、住宅のエネルギー効率性改善に向けた取組が示されたが、規制の復活については言及されなかった。英国の賃貸住宅市場では、機関投資家が保有する賃貸用集合住宅(BTR)の割合が低く個人オーナーが保有する物件割合が高いという特徴がある。個人オーナーによる住宅改修を促すには、一定程度強制力を伴うルールを設けることが有効であると考えられ、保守党における取組は賃貸住宅ストックの環境性能改善の観点からは有効性に乏しい印象を受ける。同党の支持基盤の中には、住宅の貸主である富裕層が多く含まれ、踏み込んだ規制を導入しにくい背景があることも影響している可能性がある。
対して、労働党は、保守党が撤廃した規制案を復活させ、現行の規制であるEPCでEランク以上からCランク以上に厳格化させる方針を示した。この政策により、環境性能改善に向け賃貸住宅の改修が進む可能性が高い。しかし、近年におけるインフレや建築分野の人手不足から、改修に伴う住宅オーナーの経済的負担は高まっている。RICS(Royal Institution of Chartered Surveyors)によると、労働党のマニフェストにおいて示された住宅改修に向けた財政支援規模は従来の予想より縮小していることが指摘されており、今後十分に改修が進むか不透明な部分も大きい。不十分な財政支援は、個人オーナーを中心に住宅を売却するインセンティブを増加させ、賃貸住宅市場が縮小に向かうリスクもあり、慎重な舵取りが必要となるだろう。
今回の総選挙における両党のマニフェストでは、不動産分野におけるネットゼロ政策に関する記述は、上述した賃貸住宅のエネルギー効率性改善など限定的に留まった。しかし、不動産分野のネットゼロ達成に向けては、建築物のエネルギー効率性だけでなく、エンボディドカーボン(Embodied Carbon、建築物の建設や解体など、運用以外において発生するCO2を指す)の削減や再エネ利用など取り組むべき領域が広範に及んでいる。環境対応が進んでいる英国の取組は、世界的なESGやSDGsの流れからも注目を集めやすい。不動産市場でも将来の環境対応の手本となる国だけに、英国政府の政策実施の方向性や深度には注意を払う必要があるあろう。
※EPC(Energy Performance Certificate)とは、建築物のエネルギー効率性を最高のAランクから最低のGランクまでの7段階で評価する証明書。英国では、建築物を新築、改修、賃貸する際は、建築物のエネルギー効率性に関する証明であるEPCを取得し、その結果を表示する必要がある。英国では、新規の賃貸契約については2018年から(既存の契約については2023年から)Eランク以上の建築物でなければ賃貸できない規制が導入されている。
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